そのお茶の味はいつも飲んでいるものとはちょっと違っていた。見た目は黄みどり色で緑茶のようだが、それよりもまろやかな渋みが口に広がっている。爽やかなのに甘く、それはまるで瑞々しい10代の女の子を思わせる香りだった。湯飲み茶碗よりも小さめのサイズの、可愛らしい真っ白なコップをテーブルに置くと、店員さんが来た。年配のふっくらとした女性が、急須にお湯をドボドボ入れていく。大量にこぼれて床を濡らしているが、全く気にしていない。その良い意味でてきとうな感じがこの国を象徴していて、冷えた体をより温かくさせた。


 ここは阿妹茶楼(あめちゃろう)というお店。台湾の中心部、台北から車で約一時間の九フン(きゅうふん)にある喫茶店だ。九フンはかの有名な映画「千と千尋の神隠し」のモチーフにもなった場所で、全体的にノスタルジーで幻想的な雰囲気が漂っている。
 添乗員の金(きん)さんから「お茶を飲み終わったら、自由に散策してください」と声がかかる。窓の外をちらりと見ると、びっくりするほど土砂降りだった。ここが東京だったら絶対に外に出ない。けれどせっかく九フンに来たのだからと思い、お店でお土産の茶葉を買ったあと、傘を差して外出することにした。


 喫茶店の外では、たくさんの観光客が阿妹茶楼の写真を撮っていた。木造の三階建ての建物で、壁は黒く、屋根全体に蔦のようなものが巻き付いている。その下には小さな赤い提灯が1メートル間隔ぐらいでぶら下がっており、人々は皆その灯りに見入っていた。それは何だか、まるで今にも魂が吸い込まれていきそうな光景だった。


 お店の周りは人でごったがえしていて、皆この街全体に漂う夢心地をともに味わっていた。それは、今日が今日だということも分からなくなってしまうような、時間軸がバラバラに解体されている空間だった。その空間は、自分にまつわる国籍や、番号、身分や名前ですらはぎ取られて、わたしがわたしであるという証拠をひとつ残らず吸い取られてしまうような場所だった。そういう、いわば幻みたいなものがずっと街全体を覆っていて、わたしたちはその世界のなかで、ひたすら自分自身を忘れないように呼吸を繰り返していた。


 この旅行のあとわたしは職場の異動の関係で3人分の仕事を課せられ、風邪とアレルギーのダブルパンチで1ヶ月ほど体調を崩し、おまけにクリスマス前に恋人と喧嘩をしてしばらくの間、音信不通の状態になる。あの赤い提灯を見つめていたわたしは完全なる幻となり、全く別人のわたしが東京で暮らしている。どちらかというと、今のわたしのほうが幻であってほしいような気もする。今は何だかとても悪い夢を見ていて、ハッと目を覚ましたら、わたしはまだ台湾のホテルにいるのかもしれない。そうしたら、この文章も消えてしまうのだろうか。テーブルに置かれたコップからは、幻のころのわたしを知っている台湾のお茶の香りだけが、確かに部屋に漂っている。