大人になること、迷子でいること


甘ったれた三十代が歩く道に、親切な人ばかりではないと覚悟はしているけれど、今のところ、バイキンマンらしき人は全く見当たらない。わたしはかなりの方向音痴だ。最近でこそスマホに地図アプリが登場したおかげで、前よりかは道に迷うことがなくなったけれど、それでもやっぱり道に迷ってしまう。

ついこの間まで習い事をしていて、しょっちゅう渋谷に行っていた。ハチ公口を出たら道玄坂をのぼって、東急が見えたら右手方向にまっすぐ進むだけの道。けれど目的地ちかくになって、公園を右に行ったらいいのか左に行ったらいいのかいつも迷ってしまって、何ヶ月も通ったのに、習い事の最終日まで地図アプリに誘導されなければたどり着けなかった。

記憶力が悪いのかもしれない。いや、でも大好きな遠藤保仁選手が購入していた腕時計はウブロだったということや、お気に入りのぶどう味のグミにたまに顔が描いてあるグミが入っているということ、10年前に住んでいた部屋にゴキブリが何回出たとか、そういうことはしっかり覚えている。つまり、道なんてどうでもいいのかもしれない。本当に?いや、そんなことはない。おばさんが道に迷っていても、誰も幸せになれない。

どうして方向音痴なのだろう。まず、自分がどこにいるのかわかっていない。いや、今は家にいるっていうことはわかっているけれど、最寄駅がどっちか指さしできない。自分が北を向いているのか、南に向いているのかも知らない。そういえば、朝、太陽がダイレクトに差し込んで来ないから、窓は東側じゃないのかもしれない。北枕は良くないっていうから、北でもないのかもしれない。そうだ、コンパスアプリがあったなあと思って調べたら、まさかの北だった。わたし、北枕で寝てたんだ。まあ別にいいか。住んで7年ぐらい経ってるけど。と、こんな具合だ。

あと、地下鉄を出たところの地図に、出口が植物のゼンマイみたいにクルクルっと3段階くらいに曲がっているともう大混乱である。自分はどこから来たのか、どこを向いているのか、そしてここはどこなのか。そう、常に自分が向いている方向はただの正面であって、北とか南とかそういう概念がない。前、後ろ、右、左。すべてはこの4つで構成されていて、いつだって振り向けば、わたしの信じる方向概念のひとつである「前」は正面方向へ変わるのだった。

次に、進む方向がわかっていない。いくら親切な地図アプリがこっちだよと指し示してくれていても、その方向が自分の「前」と一致していないとわからなくなってしまうのだ。そう思って、アイフォンの矢印方向を自分の正面に合わせようとすると、くるっと画面がタテヨコ入れ替わってしまったりして、顔も一緒に横向きになったりする。いや、これはくるっとならないように設定すればいいだけのことだけど。

ちいさい頃から方向音痴だった。でもひとつ思うのは、訓練すればきっと方向音痴は治るのではないか、ということ。困ったことに、方向音痴で困ったことがない。東京には人があふれている。道がわからなくなったら、人に聞けばいいのだ。わたしは一人では目的地にたどり着けないから、渋谷でも、大阪でも、パリでも、ハワイでも、ところかまわず人に聞いてきた。世界中の人たちは、みんな親切だった。だから迷子にはなるけれど、行方不明にはならずにこうして生き延びている。そのたびに、自分が向いている正面は「前」ではないんだよ、と教えてもらって、方向転換してきた。今思えば、目的地よりも道を教えてくれた人の記憶のほうが色濃く覚えている。

何かあっても、きっと誰かが助けてくれると思っている。その根拠もない他人を信じる力がどんどんわたしを弱くする。ちょっとぐらいは強くなりたいなあなんて、一年のうち雪が降るぐらいの確率で思ったりもするけれど、世界中の人たちがあまりに優しくて親切で、びっくりするぐらい良い人が多いから、わたしは一生強くなることができない。ベッドを直さないで会社に出勤したため、北ではなく北北西ぐらいを向いた枕が、大人とは何かを問いかけている。