読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

二度寝なんてしなきゃよかった

音楽ライターを目指して、あれやこれやと書いています。

邦楽の歌詞から読み解く「好き」のかたち

 ここ最近、あえて恋人へ連絡しないようにしている。理由は、今までは2週間に一度は会えていたのに、仕事が忙しいのか何なのか、お互いすれ違って会えなくて、おまけに彼は焦っている様子もなく、次いつ会える?などという催促もなく、毎日無邪気でたわいもない連絡ばかり寄こすからだ。会いたいのは私だけなのか、そもそもお付き合いしていると言えるのか、別の女性と遊んでいるからそんなに余裕なのか、そんなことを部屋で悶々と一人で考えていたらとても馬鹿らしくなって、考えても仕方のないことで脳みそは疲弊してくるものだから、その時間とエネルギーを返せ!といった怒りさえ沸いてくる。
 だからと言って、連絡しないのはどうなのだ、という反論は当然だと思う。けれど、わたしにとっての愛情表現は、こういった状況では無言が一番自分らしいのだ。そんなんじゃ相手に伝わらないし、受け手によっては誤解されかねない行為だ、というのはもっともなご指摘で、実体験としてこれまで散々な目に遭ってきた。それでも口をつむんでしまうのは、何かもうどうしようもないというか、生まれつきとでも言うべきか、だってこれが私なんだからという、理由にもならない理由がここにある。
 そう考えると、愛情表現というのは多岐にわたる。ストレートに言う人もいれば、ひねくれた表現をする人もいれば、わたしのように無言というメッセージを伝える厄介者もいる。では、音楽の世界での愛情表現はどうなのだろうか。曲のなかでの愛情表現というと、主に歌詞での表現が思い浮かぶ。ミュージシャンにとって歌詞とはある意味、その世界の柱になっていることもあるだろうし、その世界観を補強する材料にもなるだろう。今回は、4人のミュージシャンが描く恋愛における「好き」のかたちを、眺めていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 

☆ウエディング手紙系歌詞

『クリスマスソング』 back number

会いたいと毎日思ってて
それを君に知って欲しくて
すれ違う人混みに君を探している
こんな日は他の誰かと笑ってるかな
胸の奥の奥が苦しくなる

できれば横にいて欲しくて
どこにも行って欲しくなくて
僕の事だけをずっと考えていて欲しい
やっぱりこんな事伝えたら格好悪いし
長くなるだけだからまとめるよ
君が好きだ

聞こえるまで何度だって言うよ
君が好きだ


 読んでいてこちらが恥ずかしくなるくらい、非常にストレートに書かれた歌詞だ。曲名通り、状況としてはクリスマス当日の話である。会いたいと思っているのに君を探しているということは、ここに出てくる僕は、君に片思いしているということがわかる。それも、ちょっと気になるどころではなく、熱烈に君が好きである。なぜなら、僕は毎日君に会いたいし、君には僕の事だけをずっと考えていて欲しいと歌っているからだ。晴れの日も、くもりの日も、雨の日も、たとえ巨大な台風が来ていて、高速道路が封鎖され、ありとあらゆる電車が運休してしまった日でも、それでも君に会いたい。そして、君には受験当日でも、大量の仕事で忙殺されている日も、たとえ風邪をひいて40度の高熱が出ていたとしても、僕のことを考えていて欲しいのである。
 しかし、現実にそんなことは可能なのだろうか。どんなに好きな人がいたとしても、片時も頭から離れない状態というのは、せいぜいお付き合いを初めて最初の三ヶ月程度であるし、生活していれば考えなければいけないことはたくさんある。お腹は減るし、洗濯物もたまるし、夜が来ればとたんに眠くなる。つまり、この曲で出てくる僕と君の関係は、ある意味現実離れしていると言わざるをえなく、若い女性にとっての理想の男性像なのではないだろうか。back numberが好きという女の子に好きな理由を聞いたときに「こんな風に愛されたいなあ。」と話していたことを思い出す。やはりこの曲の歌詞は現実の男性の姿をリアルに描いたものというよりは、女性側から見て、男性にこんな風でいてほしいという願望に即した、歌詞だと言っても良いのかもしれない。
 この歌詞を読んで、何かに似ているなと思っていたが、それは結婚式の時に読まれる手紙だ。僕たち私たちの理想や希望を語った、人々に感動を与える文章。そこに生活感はいらないし、本当はどうしようもない、みっともない僕らの姿のことは、ひとまず秘密にしておかなければいけない。こうした『ウエディング手紙系歌詞』は、恋愛における理想像をベースに歌詞が書かれるため、恋愛未経験の若い子に支持されることはもちろんのこと、前向きで夢見がちな大人にも愛されるため、ある意味需要のある歌詞だと言える。また、back numberは比喩などを使わずにストレートに歌詞を書いているため、誰が聴いても意味がわかりやすく、まさしく聴き手にとって相互理解するのに困らない、シンプルなメッセージとなっている。
 ただ、あまりの分かりやすさのために言葉が持つ意味以上の広がりはなく、文学性は低いと言わざるをえない。また、現実に対しての写実性が低く、目の前でいざ男性と向き合うとなると、理想と現実にあまりの差があるため、この歌詞自体が全く使えないマニュアルのようになってしまうのは仕方がないと思われる。それでも、社会が求めている理想の男性像を歌詞に落とし込み「君が好きだ」という単純かつ明確なメッセージで女性を魅了させたという点に関しては、日本の音楽シーンの需要をよく理解しており、特にマーケティングという観点からは、非常に評価できるところだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

☆ネガティブ釈迦系歌詞

『あの嫌いのうた』 クリープハイプ

僕は君が嫌いです 本当に君が嫌いです
その喋り方もその声も
何かを伝えようとする時のその間もその仕草も

でも僕は僕が嫌いです 本当に僕が嫌いです
この喋り方もこの声も
何も伝えられなかった時の情けない感じも

右手には左手を 左手には右手を
ポケットの中には小さな愛を
右手には左手を 左手には右手を
ポケットの中には小さな愛を

嫌い 嫌い 嫌い 嫌い 嫌いと突き放したって
結局またすぐにここに帰ってくるんだから
嫌い 嫌い 嫌い 嫌い 嫌いと突き放したって
結局ここに帰ってくるんだよ


 これほどまでに「嫌い」と連呼する歌はあっただろうか。back numberのように「好き」というワードを散りばめた歌はよく見かけるが「嫌い」という言葉を歌詞に乗せるミュージシャンはあまり見たことがない。なぜなら、「嫌い」という言葉はマイナスのイメージであり、ネガティブであり、あまり言われて気持ちの良いものではないからである。では、なぜクリープハイプはこのような言葉を歌詞に用いるのだろうか。
 ところで、アッパーリミットという言葉をご存じだろうか。人には耐えうる幸せの量というものがある、という考え方である。アッパーリミットが低い人は、自分の許容する幸せの量以上の幸せが降り注ぐと、途端に不安になって耐えられなくなってしまう。なぜ耐えられなくなってしまうかと言うと、考え方の根底にネガティブな考え方があるからである。
 例えば、自分に自信がない女の子に彼氏ができたとしよう。彼氏ができるということ自体が、その女の子にとってのアッパーリミットを越える幸せな出来事だとしたら、「こんな素敵な彼氏ができていいのだろうか」と思ってしまったり「この先別れたらどうしよう」などと考え、結果、その彼氏のことを好きだと思っているにも関わらず、言いようもない不安感を覚え、女の子の方から別れを告げてしまうのだ。つまり、自分に自信がないがために、仮に幸せが訪れたとしても、とてつもない不安にさいなまれ、本当は幸せになりたいと願っているにも関わらず、自分からその幸せを壊してしまうのだ。
 この『あの嫌いのうた』も「僕は僕が嫌いです 本当に僕が嫌いです この喋り方もこの声も 何も伝えられなかった時の情けない感じも」とあるように、自分に否定的で自信がない主人公が描かれている。それも、何も伝えられなかったということは他人に素直に自分の気持ちを伝えることが苦手なようである。この歌詞に描かれている主人公のアッパーリミットが低いかどうかはこの曲だけでは断定できないが、「嫌いだ」と他人に言う行為は、君との関係を壊す行為に近いと言える。本当はポケットに小さな愛をしのばせているにも関わらず「嫌いだ」と言ってしまう行為は、自分に自信がないことからしてしまっていると推測することができ、本当は「これからも愛してほしい」というメッセージの裏返しであると言える。
 社会的にはネガティブよりもポジティブな考え方のほうが良しとされている風潮があり、ヒットチャートには前向きな歌詞が乗った曲が上位を占めている。そういう状況のなかで、あえてネガティブな感情にスポットライトを当て、それを歌詞にするというクリープハイプは少しひねくれているとも言えるが、ネガティブな感情も含めて丸ごと肯定するその姿勢こそ、真のポジティブと言えるのではないか。こういった人間が本来持つ影の部分にも手を差し伸べるその姿勢は、まさに芥川龍之介に出てくる蜘蛛の糸を垂らすお釈迦様のように思える。
 ただ、「嫌い」が連呼されるという点においては、そのままの言葉の意味を捉える聴き手にとっては歌詞の意味を勘違いしてしまう可能性がある。また、ネガティブな感情を支持するという人々は圧倒的に少数派であり、音楽市場の観点から見たら、ターゲットにしている顧客層の範囲は若干狭いような気もする。それでも、音楽が道徳の教科書化しているつまらない日本のミュージックシーンを考えれば、色んな感情を持つことの豊かさを教えてくれるクリープハイプというバンドの存在は大きく、これからも天邪鬼で不器用で、生きていくのが辛そうな人達に向けて歌を歌い続けて欲しいと願っている。


    

 

 


☆ハングリー現代詩的歌詞 
 
『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』』 サカナクション

バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心
バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心

月に慣れた僕がなぜ 月に見とれたのはなぜ
歩き出そうとしてたのに 待ってくれって服を掴まれたようだ

バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心
バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心

月に慣れた君がなぜ 月を見ていたのはなぜ
僕の左手に立ち 黙ってる君の顔を思い出したよ

気まぐれな君の色 部屋に吹くぬるいその色
壁が鳴り痺れるチェロ すぐ忘れてしまうだろう

バッハの旋律をひとり聴いたせいです こんな心
バッハの旋律をひとり聴いたせいです こんな心


 サカナクションはロックとテクノを融合させた曲が多く、この曲もテクノ特有の繰り返されるメロディーを多く用いている。特に「バッハの旋律を夜に聴いたせいです こんな心」というフレーズは曲中に多く繰り返し使われており、それが印象的な歌詞となっている。このフレーズに言及すべき特徴としては、back numberやクリープハイプと異なり、好きとも嫌いとも言わずに「こんな心」と言うだけにとどめている点だ。一体、こんな心とはどのような気持ちなのだろうか。
 状況としては、部屋のなかで一人バッハを聴いているうちに何らかの感情がわき起こっているということだ。なぜバッハなのか、という問題は後で言及するとして、ひとりで音楽を聴くという状況が一体どのような状況なのか考えたいと思う。
 一般的に、人々が音楽に対してどのような役割を求めているのか、ということを考えたときに、それはやはり人々を「楽しませる」という役割だと思う。それを象徴するかのように、近年は夏フェスと呼ばれる多数のミュージシャンが集まるイベントの規模が大きくなっている。1997年に開催されたフジロックフェスティバルは当初3万人の動員が2015年には11万人へ、2000年に開催されたロックインジャパンフェスティバルは当初3.5万人の動員が、2015年には25万人へ増加している。また、それぞれのフェスの動員数だけでなく、フェスそのものの数自体も増加の一途を辿っている。フェスの楽しみ方のひとつとしては、本物のミュージシャンを目の前にしながら、同じ音楽を好きな者同士で同じ空間を共有するということが挙げられる。つまり、近年では部屋でひとりで楽しむ音楽というよりかは、大きな空間で大人数と音楽を分かち合い、楽しむ傾向にあると言える。
 音楽にはこのような楽しみ方がある一方で、この歌詞に出てくる主人公は、音楽に対して別の役割を期待しているように思う。ただ単に気持ちを高揚させて楽しむのではなく、
部屋で静かに考え事をしているときに、部屋の空間に色をつけるかのように音楽を流している。つまり、それは部屋のなかでアロマオイルを焚いているかのように、音楽は目には見えないインテリアとしての一部となっている。考え事をしているときに聴く音楽は、未来へ繋がるちょっとしたインスピレーションを与えることもあるし、また、忘れていた過去の記憶を思い出すきっかけにもなりうるだろう。
 この主人公は、バッハを聴いて「僕の左手に立ち 黙っている君の顔を思い出したよ」と言っている。つまり、バッハを聴いて君のことを、それも、笑っている顔ではなく黙っている顔を思い出したのだ。この黙るという行為は、時にとてつもない大量のメッセージを含んでいる。なぜなら、君の気持ちをいかようも無限に解釈できるからだ。この歌詞は、主人公も君の気持ちも直接表現しないことによって、聴き手によって心情を想像する余地を与えており、それによって曲全体の世界観に膨らみを持たせている。
 そして、そんな君を思い出すことによって、部屋のなかに君の色の風が吹き、主人公の気持ちと共鳴するかのように部屋の壁が鳴り響く。面白い表現として「壁が鳴り痺れるチェロ」という一文がある。通常であれば、バッハを部屋のなかに流しているのであるから、チェロの弦が響いて、それがスピーカーから流れて部屋全体を響かせているにもかかわらず、壁が鳴ることによってチェロが痺れるという、因果関係がまるで逆転している歌詞となっている。「バッハの旋律を夜に聴いているせいです こんな心」と歌っているにも関わらず、感情がバッハの曲を逆にしびらせているということになってしまっているのだ。
 つまり、君を思い出したのはバッハのせいだよ、というのはあくまで建前であり、ただのこじつけに過ぎない。ひとりで音楽を聴くようなマイペースな生活を乱す君のことを「すぐに忘れてしまうだろう」=「まだ忘れてしまうことはできない」と歌っているのだ。つまり、主人公は君のことが好きなのである。
 ところで、どうしてこの曲中には「バッハ」という音楽家が登場しているのだろうか。バッハは18世紀のドイツで活躍した音楽家であり、現在の音楽の基礎を作ったということから、音楽の父とも言われる存在だ。そんな偉大な作曲家を目の前に、世の中のミュージシャンはただ単にひれ伏すしかないのだろうけれど、サカナクションはバッハの旋律を聴いてわき起こった気持ちを、また曲にしている。曲中に「バッハの旋律」と歌詞にしてしまった以上、バッハとサカナクションを比べられることは言うまでもないが、それでも歌詞に入れたということは、バッハを尊敬している以上に、何百年も前の音楽家を、未だに越えることのできないもどかしさのようなものを感じざるをえない。つまり、この曲を通して、サカナクションはバッハに挑戦しているような気持ちさえ感じるのだ。
 2016年、サカナクションカウントダウンジャパンという冬に行われる大規模なフェスでトリ(その日に出演するミュージシャンの一番最後に登場すること)を務めた。ひとり部屋で悶々と音楽を聴いていた主人公の恋愛模様を、フェスという何万人という人々の前でその想いを歌っているその様子は、ミュージシャンというよりかは、詩人に近いものを感じる。自分の想いや世界観を悶々と自室にこもり練り上げ、比喩を使って発表しているからだ。そんな、一人きりの部屋と大人数を目の前にするフェスのような、相反する関係性を持った世界を又にかけてバランスをとって行き来しているのがいかにもサカナクションらしく、音楽の色んな楽しみ方を教えてくれる、これからの日本のミュージックシーンを切り開いていくハングリー精神を持ったバンドと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


☆ファンタジー映像系歌詞


『ダンスはうまく踊れない』 井上陽水

ダンスはうまく踊れない
あまり夢中になれなくて
ネコは足もとで踊り
私 それをながめている
夏の夜はすでに暗く蒼く
窓にみえる星の光近く
誰も来ないし 誰も知らない

ひとりきりではダンスはうまく踊れない
遠いなつかしいあの歌
私 夢色のドレス
あなた限りない笑顔で
足を前に 右に 後 左
風の様に水の様にふたり
時を忘れて 時の間を

La La…

今夜ひとりでダンスはうまく踊れない
丸いテーブルのまわりを
私 ナイトガウンのドレス
歌はなつかしいあの歌
部屋の中で白い靴をはいて
ゆれる ゆれる 心 夢にゆれる
夜を忘れて 夜に向かって


 幼いころ三輪車に乗ってはしゃいでいた私も、小学校に上がるにつれて補助輪つき自転車へと変わり、さらにはいつしか補助輪なしで乗ることができるようになっていた。学生のころは東京に近い埼玉に住んでいて、家の周りにはたくさんのマンションが建っているため、父に手を引かれて荒川の土手で自転車の練習をしたのを思い出す。いつまでも補助輪を手放せないわたしに「試しに外してみよう、後ろ支えてるから。」と父が言い、そのうちに内緒でそっと手を離され、ただのひとりで自転車に乗ったことを今でも鮮明に覚えている。あの、何とも言えないバランスに身を任せた浮遊感は、人生そのものをまさに象徴していたように思う。それは、前を向いて走り続けていれば多少のことがあっても倒れないということと、成長するということは目に見えない補助輪をひとつずつ外していくということだった。
 そんな怖がりな私でも大学受験や就職活動、企業に入って働くという時間の経過を経て、たくさんの補助輪を外してきたと思う。大学生のころには一人暮らしを始め親という補助輪を外し、入社したときには頼りなく色んな人に質問するだけで終わっていた日々が、経験を積んでいくうちに先輩という補助輪を外し後輩に仕事を教えるようになる。人生はそんな風に進んでいくのかと思っていたけれど、逆に補助輪をつける出来事があった。それは恋愛だ。
 せっかく一人で色々こなせるようになってきたのに、今さらどうして男の子と一緒にいなきゃいけないのか、面倒くさいなあというのが正直な気持ちで、今さら彼氏という名の補助輪なんかいらないよ、などと考えているような可愛くない女だったのだけれど、周りに彼氏がどんどん出来てくると何だか自分も焦って作らなきゃいけないような気分になって、そこで初めて補助輪がないと踊れないダンスがあるということを知る。わたしがまだ二十歳だった頃の話だ。
 陽水の歌詞に出てくる人物は、そんな過去の私とは打って変わって可愛らしい女性だ。ダンスが上手く踊れない理由を、あまり夢中になれないとしている。さらには、ひとりきりでは踊れない、と歌っている。しかし踊る曲は、良く知っているはずの遠いなつかしい歌。つまりこの主人公が踊れない理由は、あなたがここにいないから、そしてあなたがいなければ、人生にさえ夢中になれないということを暗に伝えているのだ。また、そうした女性の少しうつむいた表情さえもありありと浮かぶような、情景描写が的確に描かれている。
 二十歳の頃、同じバンドが好きだということがきっかけで初めて恋人ができて、そうしてたった半年で別れてしまったことがあった。お互い共通のお気に入りのバンドのライブに行って、隣にその男の子がいるということだけで緊張して踊るどころではなかったのだけれど、あの時わたしと彼がいた場所は陽水の歌詞で出てくる「誰も来ないし 誰も知らない」場所だったと思うし、走っていた方向は「夜を忘れて 夜に向かって」のような昼も夜も存在しない、時間軸から解き放たれた四次元以上の世界だったのだと思う。実際は、「誰も来ないし誰も知らない」場所なんて、グーグルマップが開発されて以降もう存在なんてしない。しかし、そういった嘘を軽く混ぜることで、恋愛している最中の浮き世離れしている雰囲気を出すことに見事に成功している。また、「夜を忘れて 夜に向かって」という矛盾した文章を対にすることで、完全なる「ファンタジーの世界」を見事に作り上げているのだ。
 その彼に、突然「おまえ、本当に俺のこと好きなの?」と言われて、あなたのことを好きだったのか、恋人がいる自分のことが好きだったのか分からなくて、私は押し黙ってしまう。けれど、あなたのことを補助輪としか思っていなかった私は愚かだったし、あなたのことはきちんとダンスを踊るパートナーとしてまっすぐ見てあげるべきだったんだな、と今なら思える。そのとき、初めてわたしは「ダンスをうまく踊れない」ような、女の子に生まれ変わってしまった。気まぐれな猫のように襲ってくる恋愛というものが足もとをウロウロしていたとしても何だか踏み出すことができなくて、それを眺めてひとりであなたを妄想しながら、決して上手とは言えないダンスの練習をするのだ。
 そしてそんな失恋をしたとしても、前を向いて走って行かなければいけない。なぜなら補助輪を外した自転車は、スピードを失うとバランスを崩して転んでしまうことを、わたしが一番よく分かっているからだ。回転するペダルに足がもつれても、あのときライブで一緒に聴いたあのバンドの曲を聴きながら、朝を忘れて、朝に向かって漕いでいく。その少しおぼつかない右足と左足が、これからどんなステップを踏んでどんなダンスを踊っていけばいいのか、足もとで踊るネコでさえも知ることはできないし、それでもあらゆる物事すべての意味なんて分からなくても、人生は十分素敵に思えるというのは、陽水の歌詞が証明してくれているような気がする。